遠野遥さん著、「破局」を読んだので書評を書きます。
✔︎目次
- 概要
- どんな人におすすめか
- タイトルの意味
- 著者紹介
- あらすじ
- 特徴・感想
- ちょっと深掘り
遠野遥「破局」の感想
概要
私を阻むものは、私自身にほかならない――ラグビー、筋トレ、恋とセックス。ふたりの女を行き来する、いびつなキャンパスライフ。28歳の鬼才が放つ、新時代の虚無
(Amazon作品紹介ページより引用)
↑書影はこんな感じ。「破局」という文字がちょっとだけ切れているのが、不穏です。
どんな人におすすめか
- 純文学のファン
- 若い人(20〜30代かな)
- 「コンビニ人間」(村田沙耶香 著)が好きな人
タイトルの意味
破局:事態が行き詰まって、関係・まとまりなどがこわれてしまうこと。また、その局面。悲劇的な終局。
(goo辞書より引用)
まさにこの言葉通りの展開でした。
著者紹介
著者の遠野遥さんは、2019年に「文藝賞」を受賞してデビューした28歳。新人作家さんです。
この「破局」が著者にとって単行本2作目となります。
あらすじ
「私」は法学部所属の大学4年生(「芥川賞」受賞記者会見より、著者と同じ慶應大学生であることが明言された)。出身高校のラグビー部をコーチとして指導している。毎日の筋トレを欠かさず、公務員試験に向けても真面目に勉強し、麻衣子(まいこ)という政治家を目指す彼女がいる。
友人の膝(ひざ)の学内お笑いライブを観に行った際、1年生の灯(あかり)と出会い、懇意になっていくが‥‥‥。
その出会いは「私」の「破局」の始まりだった。
特徴・感想
特徴はひとつです
・正しすぎる思考
正しすぎる思考
主人公の一人称で書かれた小説で、彼の思考を追いながら読むことになります。
そしてその彼の思考が、全て正しいことなんです。そして行動自体も正しいんです。なのに、いや、だからこそ、妙な違和感を生むという構造に、この小説はなっています。
主人公は自分の行動全てに、理由をつけます。「〇〇だから、〇〇する」という公文が随所に現れます。
——私はこの女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった。(本文より引用)
隣に座っている女性のショートパンツから伸びる脚に欲情した、という場面です。
「公務員試験を目指す人間だから、脚をぶつけない」という思考の違和感。
結果としてそれは至極正しい行動(無行動)です。知らない女性に脚をぶつけてはいけないというのは、ほとんどの人が頷いてくれる正しいモラルでしょう。しかし、普通の人はそこにいちいち理由をつけるでしょうか? もっと自動的に、何も考えずに、そんなことはしないという行動をとっているはず。
それなのに、いちいち理由を添える必要があり、しかもそれが自分の意志とか感情とかいの類ではなく、社会の常識やモラルであることが、違和感を生み出しているということです。
他にも、「男女共用のトイレで、便座を上げたままにして出てきた男」に対して、心の中で過剰に批判する、というのも印象的な場面でした。なんでそんな非常識なことができるんだ?と、憤るわけです。
「私」は常識やモラル、規範のようなものに沿って生きており、その行動は全て正しいものです。
真面目で、必要な勉強や筋トレを毎日欠かさない。学歴もある、素敵な彼女もいる。結果としての行動から浮かび上がる人物像やステータスは、完璧ともいえます。
思考にグレーな部分がない、という言い方もできます。普通の人は、「なんとなくこうしました」という行動をします。しかし本書の主人公には、「よくわからないけど、こうする」という部分が非常に少ないのです。
唯一彼がそんなグレーさを見せたのは、灯とのデート中、友人の膝の話をしているときでした。
先程から、私は膝の話ばかりしていた。こんな話を、灯は聞きたいだろうか。しかし私は、なぜか灯に膝のことを知って欲しかった。(本文より引用)
ちなみに膝は、「私」とは全く違った人物として描かれています。酒を飲みすぎて失敗したり、就職活動をしながらもお笑い芸人に対する憧れを捨て切れなかったりするような、とても人間臭い人です。
そんな膝のことを、なぜかわからないけれど話したくなった「私」。このあたりを「私」が掘り下げることができれば、もしかしたら展開は違ったのかもしれません。読了した僕の目には、このシーンが、膝という存在が、最後の希望だったのではないかという風に思えました。
そこから後、グレーな思考が出てくる時は、「〇〇か?」と、自分の気持ちを推し量るような文章が登場します。この情緒の希薄さが虚無感であり、「主人公」は作中にキーワードとして出てくる「ゾンビ」そのもののような存在だということができます。
というのが、教科書的な「破局」の解説でしょうか(そんな良いものでもないですかね)。まあでも、ある程度一般的な読み方かなと思います。
ここからさらに、僕が感じたことをもっと率直に書いてみようと思います。
ちょっと深掘り
さて、読んだ人の多くは「この主人公、変だよね」と感じて終わるのかなと思います。しかし僕は個人的に、彼を「変な人」だと切り捨てることができないと感じました。彼を「こう言うゾンビみたいな人に待ち受けるのは悲劇だよねー」と安全圏から笑うことが、どうしてもできなかったんです。
この本を読んで僕が思い出したのは、例えば会社の先輩とのこんな会話でした。
僕「業務効率化の方法ってなんかありますかね?」
先輩「うーん、やっぱり始業時間の15分くらい前にきて、その日のスケジュールを詰めておくといいよ。やってみたら? みんなやってるし」
僕「え、でも始業時間までは働く義務ないですよね?」
先輩「え、まあ、そうだけど‥‥‥」(戸惑いと失笑)
先に断っておきたいのですが、僕も馬鹿ではありませんので、こういうことを言うと相手が「こいつは面倒なやつだ」と思うだろうというのはわかっているんです。しかし、あえて「そういうキャラ」になっておくと便利なので、そうしています。始業よりも早くきて仕事をしたりもしないし、残業したり休憩時間返上で働いたりもしない。出世とかに興味がないので、そうやって自分の時間を確保しつつ最大限会社を利用する道を、自ら選んでいます。
この僕と先輩の会話での僕の思考は、「破局」の公文で言えば、「始業時間前に何をしていようが、それは自分の権利だから、仕事のために使わない」という感じです。一方先輩は、「でもみんなやってるし」とか、「あー、そういうめんどくさい系ね、はいはい」くらいの感覚ではなかろうかと思います。多分ですけど、「どうしてみんなやっているのか」とか、「こういうめんどくさい系の子は、どうしてこんな行動をするんだろう?」みたいなところまで、思考が進まないのではなかろうかと。
僕みたいな意図と思惑があって行動する人もいれば、なんとなくで行動する人もいるよな、と言うことをまず前提に置くために以上の話をしました。まあ圧倒的に後者が多そうですが‥‥‥.
「破局」の「主人公」は、「常識に当てはめた場合はどうだろうか?」という思考を毎回挟んでから行動しています。なんらかの思考を挟まずになんとなくで行動している人とは違う。
だからと言って自分の意図や思惑があって行動している人と同じと言うわけでもありません。
先にも述べましたが、「破局」の主人公はルール、常識、モラルといったものに沿った行動のみをとります。全ての行動が「正しい」わけです。まあ作中では正しく受け身な姿勢をとったことで、結果的に他人の影響で間違っていくわけですが、自分の行動としては、正しいルールとモラルに則った正しいものを貫いています。
で、何が言いたいかと言うと、「みんな正しくないよね」ってことです。
なんとなくで行動している人は、グレーな部分がどうしても多くなりますよね。さっきの先輩で言えば、終業時間外に仕事をするのも後輩に勧めるのも正しくはないし、それを黙認したり評価したりする上司や経営者も正しくないわけです。
あくまでルールや原則としての正しさが基準です。まあ感覚的には「別にいいんじゃない?」って感じですけどね。
意図や思惑があってルールや原則を持ち出してくる(僕のような)人間も、純粋にルールに則ろうとしているわけではなく利用しているので、本当の意味では正しくないわけです。
そして、「破局」の主人公だけが正しい。
しかしふと立ち止まると、ルールや原則って、みんなが守るべきものとして作られているわけですよね?
それを現実の人間はほとんどが、100%は守れていない。そして「破局」の中で行われた思考実験では、「正しい人間」は、まさに破局を迎えることとなった。
じゃあルールや原則ってなんなんだ?
法律とか就業規則とか契約書とかってなんなんだ?
守っても上手くいかないものということ?
僕たちが関わっていく中で、グレーな、いわば暗黙のルールみたいなものがあるけれど、そんな定量化できないもので成り立っているこの社会って、物凄い欠陥品なんじゃないの?
これが僕が「破局」を読んで感じたことでした。
まあ「破局」という作品からは随分離れてしまって、勝手に考えを進めてしまった感は否めないですけどね。
しかしこうやって自由に考えを深められるのが、純文学の醍醐味です。
そういう意味でも、「破局」は読み手に大きな影響を与える優れた芸術作品だと言えるのではないかと思いました。
気になるかた、ぜひ一読してみてください。
破局
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以上です!