【書評】村上春樹「一人称単数」の感想【自分とは違う形で、ありえたかもしれない自分】

「村上春樹の『一人称単数』の魅力は?
買おうかどうか迷ってるんだけど、面白いの?」

そんな人の参考になるよう、感想を書きます。
✔︎村上春樹「一人称単数」の感想

  • 概要
  • 基本情報
  • タイトルの意味
  • 著者紹介
  • あらすじ
  • 特徴・感想

 

 

村上春樹「一人称単数」の感想

概要

帯に載っていた概要を引用しますね。

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。
(「一人称単数」概要より引用)

 


↑書影はこんな感じ。めっちゃおしゃれです。

 

基本情報

村上春樹さんの6年ぶりの短編集です。
収録されている8編のうち、7編は文芸誌「文学界」に納められたもので、1編のみ書き下ろしとなっています。
 

どんな人におすすめか

詩的でオシャレな文体が好きな人。
ちょっと不思議な話が好きな人。
ノスタルジックな雰囲気が好きな人。
クラシック音楽やジャズが好きな人。
お酒が好きな人。
繊細な人。

こんな人が楽しめる8編だと思います。

タイトルの意味

「一人称単数」というタイトルは、書き下ろし作品の1編と同じタイトルになっています。
帯の概要には、『「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ』とあります。なんだか意味深ですね。
この言葉を読んで僕が思い出したのは、村上春樹さんの著書「職業としての小説家」の中にあったこんな言葉でした。

一人称小説を書くとき、その多くの場合、僕は主人公の(あるいは語り手の)「僕」を〈広義の可能性としての自分〉として大まかに捉えているのだと思います。それは〈実際の僕〉ではないけれど、場所や時間を変えられていたら、ひょっとしたらこうなっていたかもしれない自分の姿であるわけです。そのような形で枝分かれさせていくことで、僕は自己を分割していた、ということになるのかもしれません。そして自己を分割し、物語性の中に放り込むことで、自分という人間を検証し、自分と他者とのーーあるいは世界との-ー接面を確かめていたわけです。
(「職業としての小説家」村上春樹 著.  新潮文庫(2016)より引用)

つまり、村上春樹さんが題材としているものの中に、「自分が選んだ道とは違う道を選んだ、可能性としてありえた自分」の存在というのがあるということでしょう。平行世界のようなイメージでしょうか。
初期のいわゆる「鼠三部作」の中で、「羊男」は僕の裏側のような存在として描かれていましたし、「1Q84」なんかはまさに平行世界のお話でした。
つまり「一人称単数」というのは、これまでの村上作品にも描かれていた「平行世界の自分」のような存在を示唆する言葉だと思われます。自分自身は一人称単数としての自分だが、そんな自分が何人もいて…という感じですかね。
この短編集に納められた8編には、共通してそのようなイメージが背景にあるように感じました。
 

著者紹介

著者の村上春樹さんは、知らない人はいないというほど有名な作家ですよね。世界中にファンを持つ、日本を代表する作家です。
作家としてデビューしたのは、1979年。バーを経営する傍ら、夜な夜な書いて完成させた「風の歌を聴け」が「群像新人賞」を受賞してのデビューでした。この時、作者は30歳。
短編小説家としては、1980年に発表された『中国行きのスロウボート』が最初の1編となります。デビューの翌年には短編を書いているんですね。短編集『中国行きのスロウボート』は1983年に刊行されました。
そんな村上春樹さんですが、なんと今年で71歳。40年以上も作家として最前線で活躍されているんですね。入れ替わりの激しい文学の世界では、驚異的なことです。
そんな村上春樹さんが、前回の『女のいない男たち』から6年振りに発表したのが、『一人称単数』という短編集です。

 

あらすじ

1編ずつ、短めのあらすじを書いておきますね。
 

石のまくらに

僕が二十歳のときに一夜を共にした彼女について、僕は知識を持ち合わせていないし、顔も覚えていない。おそらく彼女の方も僕の名前も顔も覚えていない。
「私は短歌を作っているの」
彼女はそう言った。そして後日、彼女は手作りの「歌集」を送ってくれた。そのタイトルは「石のまくらに」。
彼女のことを今だに記憶していることや、変色した「歌集」をときどき抽斗から引っ張り出して眺めることになんの意味があるのかはわからない。とにかくその「歌集」の言葉以外は、全て消えてしまった。
 

クリーム

十八歳のときのこと。僕はあるコンサートに招待された。昔通っていたピアノ教室で一度だけ連弾をしたことのある女の子が、リサイタルを開くことになったのだ。
あまり仲の良かったわけではない彼女からの招待を不審に思いながらも、身なりを整えて花束を買い、指定されていた日時に会場へ向かった。
しかし到着すると、会場には誰もいなかった。会場の扉は固く閉ざされていた。
日時も場所も間違えていない。僕は彼女にかつがれたのだろうか?
 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

僕は大学生の頃、「チャーリー・パーカーが実は生きていて、ボサノヴァを録音した」という嘘の論評を冗談のつもりで書いた。その文章は友人のつてで大学の文芸誌に載り、チャーリー・パーカーファンから非難された。
それからおよそ十五年後、ニューヨーク市内の小さな古レコード店に立ち寄った僕は、「Charlie Parker Plays Bossa Nova」というタイトルのレコードを見つけた。それは僕がかつてでっち上げたタイトルで、本当は存在しないはずのものだ。しかし曲目まで僕が昔でっち上げた通りのレコードが、ここに存在していた。35ドルの値札がついていた。
 

ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

世間の音がビートルズで満たされていた1964年。高校生だった僕にガールフレンドができた。
彼女とデートをしたり、時には彼女の妹と3人で出かけたりしていたが、一人いるらしい彼女の兄の話を詳しく聞くことはなかった。
ある日曜日に彼女の家へいくと、約束したはずの彼女はおらず、彼女の兄がいた。
彼女の兄は居間に僕を通すと、コーヒーを飲みながら話しかけてきた。そして僕がたまたま読んでいた「現代国語の副読本」の中から、芥川龍之介の「歯車」を朗読してくれと頼んできた。結局彼女は最後まで戻ってこなかった。
僕は三十五歳のとき、「歯車」を僕に朗読させた彼と、渋谷でばったり再開した。かつてのガールフレンドの近況を尋ねると、意外な答えが返ってきた…。
 

「ヤクルト・スワローズ詩集」

僕は野球が好きだ。それも生の試合を観にいくのが好きだ。
十八歳のときに東京に出てきてから、ヤクルト・スワローズのファンだ。その弱小チームを外野席の芝生に寝そべってビールを飲みながら応援するのだ。
試合を観戦しながら、暇つぶしに詩のようなものをノートに書きつけていた。そしてそれらは、1982年に「ヤクルト・スワローズ詩集」という名前で、出版された。ほとんど自費出版で、ほとんど誰にも相手にされなかった。
 

謝肉祭(Carnaval)

彼女は、これまで知り合った中でもっとも醜い女性だった。そんな彼女と僕は、私的な『謝肉祭』同好会を作った。シューマンのピアノ曲『謝肉祭』のレコードを持ち寄ったり、コンサートに足を運んだりして聴き、感想を言い合う慎ましい会だ。
彼女は自分のことをほとんど話さなかった。ただ、曲について述べる中で、自分のことを話そうとしていると感じたことはあった。
一ヶ月ほど彼女と連絡が取れなくなり、不審に思っていた僕が次に彼女の姿を観たのは、意外にもTVに写った姿だった。
 

品川猿の告白

僕が旅の途中に立ち寄った寂れた木賃宿で出会ったのは、年老いた猿だった。
猿は人間の言葉を話し、僕の部屋に瓶ビールを持ってきて身の上話を聞かせてくれさえした。
人間に育てられた猿は、雌猿ではなく人間の女に好意を抱くようになっていた。しかしその想いが叶うことはありえないと理解してもいた。
猿は人の名前を盗む能力を持っていた。猿に名前を盗まれた人は、自分の名前が思い出せないということがときどきおこるのだ。
猿は愛した女性の名前を盗んで、我がものとしていた。
 

一人称単数

普段スーツを着ない僕は、クローゼットの中で眠っているスーツに申し訳なくなって、ときどき無意味に着てみる。その行為はよくわからない罪悪感を伴った。女装趣味の人が隠れてそれをするときに感じるのに近い心情なのかもしれない。
その日は妻が出かけていた。僕は暇なのに音楽にも読書にも集中できず、観たい映画も見つからなかった。暇を持て余した僕は、スーツを来て街へ出た。
バーに入って鏡を見ていると不思議な感覚に襲われた。「これまでの人生には大事な分岐がいくつかあったが、僕はどこかで間違ったのかもしれない。鏡に映っているのは誰なんだ?」
そうしていると、見知らぬ女性が話しかけてきた。
 

特徴・感想

この本の特徴は次の3つだと思いました。

  • ①ノスタルジー
  • ②ユーモア
  • ③不可思議な出来事

 

①ノスタルジー

全体にノスタルジック(回顧主義)な雰囲気がありました。
「石のまくらに」や「ウィズ・ザ・ビートルズ」は大学生の頃を回顧するような話でしたし、「ヤクルト・スワローズ詩集」の中には父親に関する思い出話も出てきます。
エッセイ風の文体で、「これは村上春樹自身の思い出話か!?」と思うくらいリアリティのある物語が描かれています。
ちょっと感傷的だったり、痛みを伴ったりもする青春の思い出。繊細な心を描ききる凄さを感じました。

 

②ユーモア

この短編集にはユーモアが溢れていて、他の村上春樹作品と比較してかなり読みやすいかなと思いました。
例えば、「ヤクルト・スワローズ詩集」では、自分の作品を「黒ビール」だとして、球場に来ているほとんどの人が好む「ラガービール」とは違って敬遠されるものだという描写があります。自虐的で面白いと感じました。
また、「品川猿の告白」では、猿が普通に喋るだけでなく、冗談を言う場面も。シュールな笑いが楽しめました。
村上春樹が苦手な人や、読んだことないと言う人にもお勧めできる一冊です。
 

③不可思議な出来事

全体を通して、「奇妙な縁」や「不可思議な出来事」と言ったものに溢れた短編集だったと感じました。
極め付けは、表題作の「一人称単数」です。
一回読んだだけではよくわからず、僕は何回か戻りながら読み進めました。
そうやって没頭していると、「自分ってなんでここにいるんだ?」「僕の人生ってどういう経緯で今、こういう状況にになっているんだっけ?」と言うような、不思議な感覚になっていきました。自分の価値観がぐらつく感じ。「これ以上思考するとまずい」という不安な気持ちにさせられつつも、「でもこの思考の先には争い難い魅力がある」という岐路に立たされたような気がしました。
こういう感覚にさせる独特の力があるからこそ、村上文学は好きな人からはとことん好かれるし、嫌いな人からはとことん嫌われるんだろうと思います。
正直よくわからない部分もあるのですが、少なくともこの本を読む前と読んだ後で、確実に自分の中の何かが変わったように思わされます。
世の中に生きづらさや「違和感」のようなものを感じている人は、きっと楽しめると思います。そういう人には特におすすめです。

 

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以上です!